2026年春彼岸に深堀総本家の遺跡巡りをしてきた。まず、総本家第23代当主深堀忠雄氏(元高崎市議会議長:89歳)宅で、高崎市史を用いて、遺跡の予習をさせていただいた。予めアポを取っておいたので、高崎市史には、沢山の付箋が貼ってあり、書き込みもされていた。
その後、南方の丘を少し登ったところにある、総本家墓地に連れて行ってもらった。これは、地震や土砂崩れで崩れそうな急斜面にあり、多くの石塔が再移動をして、一箇所にまとめられていた。過去碑には、沢山の戒名が並んでおり、祖先の戒名が残っている最古のものは元和二年だった。これは、徳川家康が亡くなった年だ。
ここに存在する石塔類で、年号のわかる最古のものは、応永四年、足利義持の時代のものだが、現在は、風化が進んだり多くの苔や汚れで年号の認識は困難だった。元禄四年の灯篭は、下半分の地蔵立像の部分が上方の古さと釣り合わず、後世に造り替えた印象があった。またある石堂には、夫婦なのか、母・息子なのか男女の戒名が刻まれているものがあり、逝去年が約三十年も離れているのに、一つの石堂に祀られているのは興味をそそられる。
深堀一族の最古の遺跡は、隣家の所有する、足利尊氏の時代の板碑だ。今回は、隣家の好意によって特別に板碑を拝観することができた。この板碑からは、「貞和」の文字が読み取れたという。この板碑をめぐっては、大正十年消失の発覚と探索、呪術師補助による発掘と発見、平成九年にその所有をめぐって深堀氏内での紛糾騒動などが知られている。
深堀総本家墓地の東方には、深堀氏集落内で転々と移動した「薬師堂」が建てられている。今では薬師堂の灯籠も倒れ、碑文も草叢に埋没してしまっているが、コロナ禍以前には、毎年薬師堂祭りが開かれ、忠雄氏宅で深堀一族の懇親会が催されていたという。興味深いのは、薬師堂碑文に記載された、「13世紀末に開基」の文字で、鎌倉時代蒙古襲来の頃には、深堀氏は、この辺りに一大勢力を築いていたことになる。
深堀集落の入り口には、鼻高天満宮がある。地元では「天神様」として親しまれ、祭りの催しなども行われてきた。この北端には、深堀氏が元禄時代に寄贈した石祠があり、その歴史を物語っている。
江戸時代は、代々深堀清兵衛として、名主をしていたようだ。忠雄氏屋敷入り口には、清兵衛の高札場跡がある。また、江戸時代には、鎧兜もあったとか。戦国時代に深堀藤右衛門が身につけていたものなのだろうか。お彼岸は、深堀氏の由来に想いを馳せる。






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